本当は怖い「こうあるべき」という考え方

「こうあるべき」という言葉にどんな印象を持たれますか?
規律正しく、模範を示し、
自分や誰かが間違った行動をしているときは、
それを正してあげるときに使うことが多いかと思います。
「こうあるべき」は人生の価値観として、
まっとうな人間性を持ち続けるために
必要な要素であり、守るべきものであると思われます。
生きるための最低限のルール。
人間関係を形成する際の最低限のルールという意味では
誰もが「こうあるべき」を持っていてほしいものです。
しかし誰かの行動が、
最低限のルールは守っているのにもかかわらず、
自分のルールに反していることを理由に、
「こうあるべき」を他人に向けてしまうことは
同調圧力にもなりかねません。
これは自分のものさしで人を見すぎているために起こることなのです。
そもそも人は、「価値観」というものさしで
自分を見たり人を見たりしながら生きています。
価値観は人それぞれなので、違って当たり前です。
相手が最低限のルールを守っている状況であるのなら
「こうあるべき」という考え方で人を押し込めようとすることは
人間関係を形成する上で控えた方がいいかと思います。
同様に、
自分自身に対しても「こうあるべき」でしばりつけてしまうことがあります。
しかも自分自身に対する「こうあるべき」という考え方は、
他人に対する”それ”よりも厳しさが増しています。
まるで鎖でグルグル巻きにされたように
がんじがらめにしばりつけてしまいます
「こうあるべき」という考え方から想像されるものは
その人の未来の姿です。
「私は将来、こうなっているべき」と、
そのときの自分の想像の枠の中で
決めつけた未来にしばりつけてしまいます。
その決めつけが起こす副作用は、
理想と違う結果が出たときの失望感。
うろたえている自分。
あせって何もできなくなってしまう自分。です。
もちろん未来のあるべき姿を想像することは間違っていません。
自分の人生の未来を描いて、
そこに向かって行動していくことは正しい思考と行動です。
でもそれにしばられすぎない方が、
結果よいものを手に入れることもあるのです。
人生うまくいかないことはいくらでもあります。
うまくいかなかったときは一瞬でも立ち止まって、
振り返ってみたり、
軌道修正をしてみたり、
「本当に私はそれをやりたかったのか」を確認してみたり、は
なんら間違った考え方ではありません。
その思考の先には、
やはりこれが正しかったんだ、という再確認や、
やり方を修正してみようか、といった
これから起こしてみようとする行動が見えてくるものです。
もしかしたらまったく違うことを発想することだってあり得ます。
そんな柔軟さがあってもいいのではないでしょうか。
そこに、
「いや、こうあるべきは変えてはいけない」
と頑固に死守しようとすると、今度は思考が完全停止します。
「こうあるべき」という決めつけた考え方は怖いものです。
「こうあるべき」を「こうしてみたらどうだろう」にすると
いつでも緩めることのできる安心感がもたらされます。
その安心感が、
この先のさらに先まで見通せる未来を作りだしていくのです。
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